鹿島臨海鉄道

茨城県水戸市と鹿嶋市を1時間半ほどで結ぶ鹿島臨海鉄道で小旅行を楽しんできました。開業は1985年と比較的新しい鉄道なのですが、なんと単線の非電化路線という個性的な路線となっています。

DSC05001

車内の椅子の配置も個性的です。

DSC05002

 

DSC05003 DSC05005

DSC05004

水戸から走ること1時間ほどで鹿島神宮駅に到着しました。こちらの駅はJR東日本の管轄となります。電化された駅に止まっているディーゼルという面白い光景が見られます。車体は製造から30年以上経過しているためか、側面には傷が見られます。

DSC05012 DSC05006

各種のラッピング車両が走っていますが、ガルパンコラボ車両が人気のようです。 

DSC05016 DSC05017

車内にも色々な創意が見られます。サンバイザーに描かれたイラストは面白いアイデアだと思います。

DSC05015 DSC05014

二両編成だとこんな感じの狭い通路で量車両が繋がっています。

Jリーグの試合が開催される日のみ臨時駅として鹿島サッカースタジアム駅にも停車します。この鹿島臨海鉄道に初めて乗車したのは鹿島アントラーズの観戦のためでしたが、あの当時はまだ新しい車両だったイメージがあります。

DSC05009 DSC05010

 DSC05011

鹿島神宮駅内の階段の壁には歴代鹿島アントラーズのユニフォームが展示されています。

DSC05007 DSC05008

満州開拓団

茨城県水戸市内原には農業訓練を受けた農家の次男、三男などが満州に向けて歩みを進めた渡満道と呼ばれる道が残っている。

歴史の教科書には満州開拓民達が戦争に巻き込まれ、シベリア抑留されたとの記述があったことを思い出した。

そんな開拓民達の訓練所が常磐線沿線にあったと言うことを最近知ったので一度足を運んでみようと思った。

IMG_1956 IMG_1990

取手駅から常磐線に乗ること1時間ちょっとで内原駅に到着。

IMG_1957

内原駅から義勇軍資料館へ向かいます。

途中、故郷への帰郷が叶わなかった開拓民の遺骨を収めた石碑を見つけた。

IMG_1960 IMG_1958

 

IMG_1959 IMG_1961

満蒙開拓殉難者の碑

厚生省中国引揚業務で義勇軍だと判明した遺骨26体、内原訓練者で死亡の9体、武見池工事の殉難義勇軍2体の計37体が合祀されている。

IMG_1962 IMG_1963

太平洋戦争の傷跡が。

IMG_1986

内原駅からおよそ15分で資料館に到着しました。義勇軍という名称ですが、軍隊ではなく開拓民群衆のことのようです。

IMG_1964 IMG_1965

資料館内には義勇軍が使用した品々が所狭しと展示されていました。

米国に端を発した世界不況のなか日本も昭和初期の大不況により、経済不況と農村不況に喘ぎ、農家の次男、三男は食い扶持を得られず、失業者が増大するとともに東北、北海道は深刻な米の不作が重なり農村はかつて経験したことがないほどの大不況となっていた。

それの加え、政府の人口増加政策により毎年100万人という急激な人口増加が将来の食糧問題に暗い影を落としていた。

そこで政府はこれらの問題を解決するために「20年100万戸移住計画」を国策としてうちだした。その一環として昭和12年に「満蒙開拓青少年義勇軍」が創設されてとのこと。

昭和13年3月1日にここ内原に開設された訓練所は終戦後昭和20年9月15日にその役目を終えた。その間15才から19才の青少年86,530人がここ内原で3か月の訓練を受け満州へ渡っていった。さらに満州に渡った義勇軍は現地にて3年間の訓練を受け、1人10町歩が与えられ満州に定住した。

 

IMG_1966 IMG_1967

義勇軍手帳なるものが展示されていた。目次に軍歌という文字を見つける。屯田兵のような役割も課せられていたのか? 

終戦間際、現地に居た男は全員関東軍に徴兵されることになり、後に残された子供、女性がソビエト軍による悲劇に巻き込まれたと言う。また俘虜となった男たちはシベリア抑留の犠牲者になった。

IMG_1968 IMG_1969

IMG_1970 IMG_1971

長年、満州移住について疑問を持っていたのですが、この資料館を訪れことが、その疑問を解くきっかけになりそうだ。

IMG_1972 IMG_1973

満州事変でよく耳にする五族協和と言ううたい文句とともによく耳にした山口淑子さんの写真が展示されていた。中国語を操り李香蘭(りこうらん)として映画にも出演していた山口さんの顔を見るのは初めてだ。調べてみると、彼女は51年に建築家のイサムノグチと結婚するが後に離婚、その後政治家に転身し92年まで議員を勤めていたようだ。意外な経歴に驚かされるが、この資料館でこの写真を見なければけっして知ることはなかったと思う。

IMG_1974 IMG_1975

IMG_1976 IMG_1977

個人寄贈の当時のアルバムが展示されており、自由に閲覧できる。

当時の満州の様子が伝わってくる。

IMG_1978  IMG_1979

つかの間の平和な日常の1場面なのだろうか。改めて戦争悲劇について考えさせられる。

IMG_1980 IMG_1982

義勇軍の兵舎として使用された日輪館が再現されていた。終戦時にはこの建物が347棟あったという。モンゴルの移動式家屋であるパオにヒントを得たという。1棟には約60人が寝泊まりしたようだ。

IMG_1984IMG_1983 

IMG_1985 

資料館を見学後、解説員の方に義勇軍について幾つか教えていただき、さらに満州移民に関して興味を持った。

内原駅へ戻る前に、義勇軍が植えた桜並木が残っているというので行ってみる。資料館から徒歩10分くらいでその場所に到着する。

IMG_1987 IMG_1988

この道を通って満州に向かう義勇軍の足音が聞こえてきそうだ。希望に溢れ、満州へと渡った人々がその後戦争に巻き込まれていったと考えると心が痛い。

IMG_1989

以下、内原郷土史、義勇軍資料館作成のパンフレットより

満州開拓の歴史

 昭和初期の世界的恐慌により日本の農村も疲弊しきっていた。

 戦前に日本政府により勧められていた北米アメリカ、南米ブラジルや南米諸国への日本移民の入植移民数に段階的制限が加えられるようになり、日本は中国北東部に目を向け始める。昭和6年の満州事変後、昭和7年に満州国が建国され、日本政府は日本人が満州での農業耕作が可能かを探るため昭和7年から11年まで試験移民として青年を満州に送出する。試験移民の成功から、時の広田弘毅内閣は昭和11年から昭和31年の20年間で100万戸、500万人を満州に移民させる「満州開拓移民推進計画」を決議した。(当時の日本の農家数は560万戸であり、その内100万戸を移住させ、1戸当たり5人家族と見込み500万人とする。満州全人口の10%を日本人とする計画)

 満州の農業移民は、家族全員で渡満した満蒙開拓団と全国から青少年を募集した青少年義勇軍がある。

昭和12年に青少年の満州開拓を閣議決定し、国策事業として13年から「五族協和」・「王道楽土」をスローガンに全国から14歳から18歳の青少年を募集し、満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所が全国唯一内原に置かれた。

 内原が建設地となった理由としては、一定面積が確保でき、訓練に必要な指導者の確保、東京からの距離、交通の利便性があることなどが条件となり、政府に青少年の満州開拓の必要性を進言した中に加藤完治(のちの訓練所長)がおり、加藤が経営していた私学農業学校がこれらの諸条件を満たしていたためと言われている。

 義勇軍に応募した者は農家の次男、三男が多く、当時は家督は長男が継ぐとなっており、次男、三男は耕す土地もなく満州では大農経営に夢を馳せた。

 内原での訓練は基礎訓練を3か月行い渡満する。渡満してから満州各地に点在する訓練所でさらに3年間の農業実習を終了すると国から10町歩の土地が与えられ、大農経営が許可された。

 しかし、戦争が拡大するにつれ、徴兵される年齢も下がり、訓練生達も17歳、18歳になると現地召集され、多くの犠牲者が出たり、戦後のシベリア抑留されるなど過酷な状況におかれ、郷里に帰れなかった訓練生だけで2,4万人いると言われている。

 

義勇軍資料館の解説員の方から水戸で戦争展が開催されていると聞いたので、水戸へ向かいました。内原から10分ほどで水戸に到着。

IMG_1991

おびただしい数の戦争犠牲者数に改めて驚かされる。

IMG_1992

帰還証明書に函館上陸地支局長の文字が。終戦後、函館には引揚援護局が設置され北緯50度以南の南樺太から千島からの日本人引揚者30万人を受け入れたようです。最終的に引揚者のうち2万人が函館に居を求めたようです。

IMG_1997

舞鶴を経て函館に帰還した陸軍兵の方の調査票を見つける。堀川町の文字に目を奪われた。

IMG_1999

水戸出身で二次大戦中ペリリュー島で戦死した旧日本兵、白石さんが戦場で持っていた日章旗が展示されていた。永らく米国にあったという驚いたことに日本に戻ってきたのが3年ほど前だと言う、実に70年も米国にあったことになる。

日章旗には署名が埋め尽くされ、祝入営と大きく書かれている。ここに署名した人たちは入営を祝っていたのではなく、ただただ白石さんの無事を祈っていたのではないだろうか。

ランプの宿~青荷温泉

また行きたいお宿

IMG_3826_R

IMG_3827_R

盛岡駅で花輪線に乗換秋田県へと向かいました。

IMG_3828_R IMG_3829_R

田園風景を長閑に進む花輪線。風景を眺めていると心が和みます。

 

IMG_3830_R IMG_3831_R

車内に混雑もなく、なんとも贅沢。

IMG_3832_R IMG_3833_R

秋田犬で有名な大館市に到着です。

IMG_3834_R

IMG_3835_R

駅近くのバスターミナル内に食堂を発見しました。名物らしいもつ煮定食をいただきました。これは絶品です。

IMG_3836_R IMG_3839_R

IMG_3879_RIMG_3880_R

弘南鉄道を乗り継ぎ黒石駅に到着。ここからバスで宿に向かいます。

IMG_3884_R

黒石市は津軽藩の商都として栄え、観光名所が沢山ありそうでした。ゆっくり探索してみたいですね。

IMG_3840_R IMG_3843_R

道の駅で宿からのお迎えを待ちます。

IMG_3852_R

ランプの宿に到着しました。

IMG_3849_R IMG_3845_R

お宿のあちこちにランプがつるされています。電球は見当たらないですね。

IMG_3847_R IMG_3848_R

周囲の騒音もなく快適です。

IMG_3850_R

IMG_3855_R IMG_3866_R

夜はこんな感じで、温泉に入ったら寝るだけ。

IMG_3863_R IMG_3862_R

暗闇で頂く軍鶏弁当もなかなかでした。

IMG_3868_RIMG_3878_R

IMG_3874_R

地元食材満載の朝食。体に良さそうです。

咸臨丸

1855年にオランダで建造された咸臨丸は全長48.8m、幅8.5m、排水量620トンであった言われている。その咸臨丸がサンフランシスコに向かったのがちょうど160年前、そして明治4年に片倉小十郎で有名な仙台藩片倉氏を小樽に移送する際、木古内町サラキ岬沖で沈没した。

DSC02528_R

咸臨丸が眠るサラキ岬には咸臨丸の模型、水車があり、4月の連休には様々な種類のチューリップが咲き乱れる。来訪者であふれ、花々を選んで購入することもできる。

DSC02530_R DSC02531_R

咸臨丸がこの岬沖に沈んでいると知ったのは20年ほど前だったかと思う。サンフランシスコへ渡ったことは教科書で学んだが、まさか沈没したのが木古内町だということまでは記述が無かった。

DSC02536_R DSC02537_R

この海の底に咸臨丸が沈んでいるのかと思っただけで、なにやらただの海が特別な場所に思えてくるのが面白い。やはり歴史を知っていて損は無いと思う。ただ何気なく見ていた風景が心の中で違った風景へと変わってくる。

DSC02538_R DSC02539_R

海の色が沖合で大きく変わる場所に波が立っていることから、水深が大きく変わっているようだ。あの辺りで難破してしまったのかと勝手に想像する。

DSC02542_R DSC02543_R

柵の脇に錨が置いてあり、ある見物人が咸臨丸のものだと話していたが、さび具合からいって模造品ではないかと思った。

調べてみると木古内の郷土資料館に咸臨丸の錨が展示されているとのこと。一度は行ってみないといけないと思っている。

DSC02544_R DSC02545_R

面白いもので、咸臨丸との繋がりによって、木古内町のある一角に突如としてオランダらしい風景が広がる。

DSC02551_R DSC02547_R

DSC02549_R

栄光と悲劇の歴史物語と書かれた案内板があった。

DSC02571_R DSC02576_R

チューリップには様々な種類があり、オランダでは投機の対象となり国力の増強にも貢献したという。今では世界中の小学校の校庭やちょっとした花壇にはごく当たり前にみられる花となった。おそらくオランダ最盛期にはとても庶民が気軽に栽培できる花ではなかったのだろう。

DSC02568_R  DSC02575_R

そう考えると、日常の当たり前の風景がありがたいことだと思えてくる。

DSC02574_R DSC02554_R

DSC02557_R DSC02565_R

時代が変わればそれに伴い状況も変化するけれども、目の前に存在する物体の本質は変わらない。変わるのは人間の感じ方のほうだろう。

DSC02566_R

流行り病が去ったらまたこのチューリップを見に出かけよう。

水郡線の旅~2019年9月

IMG_5114_R IMG_5116_R

今年は自粛生活が続いているので昨年の出来事を思い出している。

2019年9月には茨城県北部と福島県南部を繋ぐ水郡線で小旅行をしていた。臨時列車の風っこ号というトロッコ列車に乗りに行ってきました。水郡線は久慈川沿いを走り、車窓からは奥久慈地方の自然を眺めることが出来るお勧めの路線です。沿線には日本三名瀑にも数えられる袋田の滝があります。幸運にも茨城在住と言うことが幸いして、この3つの滝を見ることが出来ています。恐らく茨城県に住んでいなければ袋田の滝には行かなかったでしょう(笑)

IMG_5118_R IMG_5119_R

IMG_5122_R

風っこ号は意外と人気らしく満席でした。こちらの列車は季節ごとに日本各地を走っているようで、10年くらい前に新潟と会津地方を結ぶ只見線でも乗ったことがあります。

IMG_5125_R IMG_5128_R

久慈川は古くから瑪瑙(メノウ)の産地のようで今でも川原でメノウを採取することが出来ます。

IMG_5129_R

残念ながら水郡線の一部区間は水害により運休となっており、運休区間は代行バスによる代替輸送が行われています。3月には代替区間の補修が終わるようなのでまた出かけてみようかと思っています。

IMG_5131_R

懐かしい配色のJR車両が常陸大子駅に停車していました。懐古趣向でしょうかね。

IMG_5132_R

あと数か月で閉店するという小料理屋でお蕎麦を頂きました。このあたりは常陸蕎麦の産地ということで新そばをいただけました。

IMG_5138_R IMG_5140_RIMG_5141_R

常陸大子の町は町全体がどことなくレトロで意外と人気らしいです。

町中で1978年のカレンダーを見つけたり、昭和元年の新聞を読めたりします。

IMG_5142_R

古民家を利用したカフェもあり、くつろぎスポットが充実しています。こちらのカフェはNHKのカフェドラマ?に登場していました。

ちなみにこちらのカフェのトイレは、なんと蔵を改造したものです。

IMG_5151_R IMG_5155_R

IMG_5160_R

久慈川を眺めながら水戸駅に戻ります。

IMG_5163_R IMG_5165_R

IMG_5168_R

ガルパン人気でブレークした大洗駅にもちょっとだけ寄ってみました。

IMG_5169_R IMG_5170_R

取手市の隣にある龍ヶ崎市はコロッケが売りの町でコロッケ祭りなんかを開催していることは知っていたのですが、肝心のコロッケを食べたことが無かったのでお蕎麦屋さんにで頂いてみました。

IMG_5171_R

こちらは龍ヶ崎市民の足として120年となる関東鉄道竜ヶ崎線で駅数はわずか3駅。かなり珍しい路線です。当然茨城では標準となる?ディーゼル車です。

IMG_5173_R IMG_5174_R

そして駅名が変更となるというので記念に佐貫駅にも寄ってみました。今では龍ヶ崎市駅へと駅名が変更されています。龍ヶ崎は稀勢の里のふるさととして知られるようになりましたが、その横綱も引退してしまいましたね。

IMG_5175_R IMG_5177_R

IMG_5179_R

フリー切符だったのでついでに関東鉄道常総線にも少しだけ乗車。こちらもディーゼル路線となります。今年で開業100年とのことで各種イベントが開催されたのでしょうが、人出はどうだったんでしょうか?来年は流行り病が大人しくなっているといいのですが。

那智の滝~ちょうど1年前

ちょうど一年前の今日に私は和歌山県にいた。仕事帰りにそのまま南紀白浜空港へ。16:35に羽田と発つと17:50には和歌山県に到着です。なんと便利な世の中でしょう。

DSC01324_R DSC01326_R

今考えると1年後にこんな事態になるとは知るすべもありません。今年はとても遠出できる状態ではありません。やれることは直ぐに実行に移ったほうがいいということでしょうか。

DSC01329_R 

DSC01325_R

那智の滝を望める高台に位置する熊野那智大社。創建はなんと仁徳天皇の時代までさかのぼるとのこと。後に信長の焼き討ちにあい、秀吉によって再建されたという。

元々は那智の滝の前に社殿があったということです。元をたどれば滝をご神体とした原始信仰の場だったと思われますが、確かにあの滝を見れば神々の存在を感じるのではないかと思います。

 DSC01332_R DSC01340_R

本殿脇に八咫烏を祭った御縣彦社があります。なんでも神武天皇を導いた後、八咫烏はこの石に変化して休んでいるとのこと。

DSC01335_R DSC01338_R

すり減った石畳が良い味出していました。

 

DSC01334_R DSC01370_R

良く写真で見かける那智の滝の風景がここから眺められます。こんな光景が日本にあるとは。

DSC01386_R DSC01388_R

 

DSC01389_R DSC01391_R

那智大社から那智の滝までは徒歩20分くらいでしょうか。ゆっくり散歩しながら向かうにはちょうど良い距離かと思います。

 

DSC01392_R DSC01395_R

滝の前には飛瀧神社があり、ここで入場料金を払って瀧に向かいます。ここも外国人が多い。しかも欧米人だらけ、何やら滝の前に瞑目しています。マイナスイオン効果を体感しているのでしょうかね??

DSC01401_R DSC01420_R

瀧の落差と綺麗に糸を引いたような水の流れに見入ってしまいました。まさしく自然の芸術ですね。太陽の角度が良かったのか滝つぼに虹が出ていました。

DSC01423_R DSC01424_R

いやはら素晴らしい光景です。まったく見飽きません。

 

DSC01434_R DSC01432_R

あたりは古くから信仰の場だったようで何かの遺構があちらこちらに残っています。

DSC01433_R

アイヌ民族の衣装

素材の違いから

①動物素材:獣皮衣(クマ、シカ、アザラシ、オットセイ)、鳥羽(皮)衣(カモ、ウなどの海鳥の皮を羽毛が付いたまま)、魚皮衣(サケ)

②植物素材:樹皮衣、草皮衣

③木綿衣:和人との交易で手に入れた木綿

④外来皮:外来の衣服をそのまま着用(陣羽織、小袖、三丹服)

 

レモルペ/カーアハルシ(草皮衣)

主にサハリンアイヌが使用。イラクサの繊維のみで織られているものをレモルペ。イラクサと木綿糸で織られたものをカーアハルシ。

 

アットウシ(樹皮衣)

北海道アイヌの伝統的な衣服。糸は主にオヒョウから作られる。

 

チカルカルペ(黒布置文衣)

和人との交易で木綿が手に入るようになると、アットウシの代わりに木綿衣が作られるようになった。

 

チジリ(無切伏刺繍衣)

サハリンアイヌの刺繍衣(チキリイミ)と同じように、木綿の生地の上に直接刺繍を施したもの。

 

ルウンペ(色裂置文衣)

木綿衣のなかでは華やかな衣服で、生地には花柄や日本刺繍が施された小袖の布地が使われる。

 

カパラミプ(白布切抜文衣)

木綿衣の中で最も新しく、明治時代以降後に作られるようになった。静内地方が発祥の地といわれている。

 

三丹服(外来衣)

18世紀の中頃から19世紀にかけて、中国のアムール川(黒竜江)流域とサハリンにおいて、中国清朝と北方諸民族の間で交流が盛んに行われていた。アイヌの人々がこの地域の人々を「サンタ」と呼んでいたので、この貿易を「三丹交易」と言う。本来中国の役人の官服で「蝦夷錦」とも呼ばれる。文様の龍の爪の数と色で位を表し、5本爪は龍、4本は蟒蛇(うわばみ)を表し、色は明黄色(皇帝の色)が最高位とされていました。

 

函館市にある北方民族資料館ではこれら貴重な資料を多数展示しています。

 

ザ・ヒロサワ・シティ

DSC04953

スクーターで1時間半、筑波山が目の前に迫ってきました。

まずはお昼です。道の駅しもつまに寄ります。

IMG_1891

下妻丼をチョイス、下妻産の野菜を使っているようです。ごちそうさまでした。

 

DSC05000

雄大な筑波山の姿を見ながら目的地へ向かいます。

DSC04955

今日は筑西市にあるザ・ヒロサワ・シティに行ってみました。美術館やパークゴルフ場、など様々な観光施設の中に無料で見学できる鉄道展示場があります。

DSC04981 DSC04957

懐かしい車両に出会えました。その名は北斗星、しかも最終運行で使われた客車とのこと。

早起きして函館の万年橋でこいつを撮影した5年前のことを思い出しました。まさか保存されていたとは知りませんでした。

DSC04956 DSC04976

なつかしのB寝台や食堂車なども展示されています。

DSC04985 DSC04986

 

DSC04978

2階建てのB寝台車が懐かしい。

DSC04962 DSC04968

臨時列車の北斗星として上野函館間を走ったことがあるEFも展示されていました。ちょうどリストア作業中のようでエンブレムが外されていました。

DSC04963 DSC04969

新幹線にSL,寝台車とバラエティーにとんだコレクションです

DSC04975 DSC04979

鹿島臨海鉄道で使用されていたリゾート列車もありました。

DSC04989 DSC04991

なじみの関東鉄道常総線で使用されていた車両も展示されていました。半動態保存と言うことで動くみたいです。

IMG_1895 DSC04997

IMG_1899

そしてこちらの売りがなんとYS11です。

DSC04994 DSC04995

羽田空港で保存されていたものを運び込んだようです。

DSC04996

すごい迫力です。公開されたらもっと近くで見てみたいですね。1度しか乗ったことがないのですが国産飛行機ということで興味深い飛行機です。

IMG_1894

こちらのパークゴルフ場にもかなり興味があります。プレーしてみたいですね。

 

 

IMG_1902 IMG_1903

帰りがけに、セーコーマートに寄って牛乳、ヨーグルト、ザンギを購入しました。

一言主神社、渡良瀬遊水地、三県境

DSC04926 DSC04927

IMG_1861 IMG_1865

五年ぶりの一言主神社となりました。ちょうど菊祭りの最中で珍しい菊が展示されていました。

DSC04921 DSC04922

 

DSC04923 DSC04924

どれも素晴らしい。

DSC04925

中には菊の木も。

DSC04928 DSC04929

DSC04931

いい雰囲気の境内です

DSC04933DSC04932

近隣には古墳があるらしく、再現された石棺もありました。

DSC04935 DSC04936

遠い昔から人々は神々に願いをこめて石碑を寄贈していたんですね。

 

IMG_1870

次に向かったのが渡良瀬遊水地、途中珍しい観光スポットに寄ってみました。

なんと、栃木、埼玉、群馬の県境があるようです。

 

IMG_1866 IMG_1867

 

IMG_1868 IMG_1869

中央の石棒が3県か交わる場所とのこと。平地で県境が交わっているのはここだけのようです。

 

IMG_1871 IMG_1872

東京ドーム100個分の面積をゆうする渡良瀬遊水地。

水害から周りの集落を守るためにつくられたとのこと。

DSC04948DSC04949

DSC04952 DSC04951

北西の方向を眺めると群馬の山々が見えます。

DSC04949

北東を眺めると筑波山が見えます。

IMG_1873 DSC04944

天候に恵まれた労働感謝の日となりました。

常総市探索

IMG_1844  DSC04889

平将門の体が埋葬されたと言われている延命院を再訪してきました。地元の方がお参りしていました。

DSC04887 DSC04890

この場所は神領だったためあばかれることなく今日に及んでいるとのこと。

DSC04891

今もここに将門が眠っているんでしょうかね。

DSC04901 DSC04899

続いて訪れたのが、平将門最後の地と言われている辺田北山。

なんでも源頼信が将門鎮魂のために立てた板碑がこの場所から見つかったようだ。

DSC04893 DSC04895

復刻されて板碑が立てられていた。

DSC04897 DSC04894

倒れた石燈は震災時によるものでしょうか。

IMG_1852

千石さんで田舎御前をいただき、午後は弘経寺へ

DSC04909 DSC04907

こちらのお寺は増上寺別院ということで徳川家の家紋があちこちに見られます。

DSC04916 DSC04915

本堂脇には家康の孫である千姫が眠っています。当初は髪塚と思われていましたが、調査により遺骨が埋葬されていることが分かったとのことです。

DSC04904 DSC04906

なんといってこの明治時代に寄贈された亀の像が印象的です。

DSC04918 DSC04919

残念ながら山門と鐘楼は震災により失われてしまいました。

DSC04914 DSC04903

DSC04902

秋を感じさせる巨大な黄色の塊。かなりの樹齢と思われる銀杏の木が素晴らしい。

IMG_1856

帰り道で珍しいものに遭遇。なんと2台の自家用車でセスナを運搬していました。