茨城県水戸市内原には農業訓練を受けた農家の次男、三男などが満州に向けて歩みを進めた渡満道と呼ばれる道が残っている。
歴史の教科書には満州開拓民達が戦争に巻き込まれ、シベリア抑留されたとの記述があったことを思い出した。
そんな開拓民達の訓練所が常磐線沿線にあったと言うことを最近知ったので一度足を運んでみようと思った。

取手駅から常磐線に乗ること1時間ちょっとで内原駅に到着。

内原駅から義勇軍資料館へ向かいます。
途中、故郷への帰郷が叶わなかった開拓民の遺骨を収めた石碑を見つけた。


満蒙開拓殉難者の碑
厚生省中国引揚業務で義勇軍だと判明した遺骨26体、内原訓練者で死亡の9体、武見池工事の殉難義勇軍2体の計37体が合祀されている。

太平洋戦争の傷跡が。

内原駅からおよそ15分で資料館に到着しました。義勇軍という名称ですが、軍隊ではなく開拓民群衆のことのようです。

資料館内には義勇軍が使用した品々が所狭しと展示されていました。
米国に端を発した世界不況のなか日本も昭和初期の大不況により、経済不況と農村不況に喘ぎ、農家の次男、三男は食い扶持を得られず、失業者が増大するとともに東北、北海道は深刻な米の不作が重なり農村はかつて経験したことがないほどの大不況となっていた。
それの加え、政府の人口増加政策により毎年100万人という急激な人口増加が将来の食糧問題に暗い影を落としていた。
そこで政府はこれらの問題を解決するために「20年100万戸移住計画」を国策としてうちだした。その一環として昭和12年に「満蒙開拓青少年義勇軍」が創設されてとのこと。
昭和13年3月1日にここ内原に開設された訓練所は終戦後昭和20年9月15日にその役目を終えた。その間15才から19才の青少年86,530人がここ内原で3か月の訓練を受け満州へ渡っていった。さらに満州に渡った義勇軍は現地にて3年間の訓練を受け、1人10町歩が与えられ満州に定住した。

義勇軍手帳なるものが展示されていた。目次に軍歌という文字を見つける。屯田兵のような役割も課せられていたのか?
終戦間際、現地に居た男は全員関東軍に徴兵されることになり、後に残された子供、女性がソビエト軍による悲劇に巻き込まれたと言う。また俘虜となった男たちはシベリア抑留の犠牲者になった。


長年、満州移住について疑問を持っていたのですが、この資料館を訪れことが、その疑問を解くきっかけになりそうだ。

満州事変でよく耳にする五族協和と言ううたい文句とともによく耳にした山口淑子さんの写真が展示されていた。中国語を操り李香蘭(りこうらん)として映画にも出演していた山口さんの顔を見るのは初めてだ。調べてみると、彼女は51年に建築家のイサムノグチと結婚するが後に離婚、その後政治家に転身し92年まで議員を勤めていたようだ。意外な経歴に驚かされるが、この資料館でこの写真を見なければけっして知ることはなかったと思う。


個人寄贈の当時のアルバムが展示されており、自由に閲覧できる。
当時の満州の様子が伝わってくる。

つかの間の平和な日常の1場面なのだろうか。改めて戦争悲劇について考えさせられる。

義勇軍の兵舎として使用された日輪館が再現されていた。終戦時にはこの建物が347棟あったという。モンゴルの移動式家屋であるパオにヒントを得たという。1棟には約60人が寝泊まりしたようだ。

資料館を見学後、解説員の方に義勇軍について幾つか教えていただき、さらに満州移民に関して興味を持った。
内原駅へ戻る前に、義勇軍が植えた桜並木が残っているというので行ってみる。資料館から徒歩10分くらいでその場所に到着する。

この道を通って満州に向かう義勇軍の足音が聞こえてきそうだ。希望に溢れ、満州へと渡った人々がその後戦争に巻き込まれていったと考えると心が痛い。

以下、内原郷土史、義勇軍資料館作成のパンフレットより
満州開拓の歴史
昭和初期の世界的恐慌により日本の農村も疲弊しきっていた。
戦前に日本政府により勧められていた北米アメリカ、南米ブラジルや南米諸国への日本移民の入植移民数に段階的制限が加えられるようになり、日本は中国北東部に目を向け始める。昭和6年の満州事変後、昭和7年に満州国が建国され、日本政府は日本人が満州での農業耕作が可能かを探るため昭和7年から11年まで試験移民として青年を満州に送出する。試験移民の成功から、時の広田弘毅内閣は昭和11年から昭和31年の20年間で100万戸、500万人を満州に移民させる「満州開拓移民推進計画」を決議した。(当時の日本の農家数は560万戸であり、その内100万戸を移住させ、1戸当たり5人家族と見込み500万人とする。満州全人口の10%を日本人とする計画)
満州の農業移民は、家族全員で渡満した満蒙開拓団と全国から青少年を募集した青少年義勇軍がある。
昭和12年に青少年の満州開拓を閣議決定し、国策事業として13年から「五族協和」・「王道楽土」をスローガンに全国から14歳から18歳の青少年を募集し、満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所が全国唯一内原に置かれた。
内原が建設地となった理由としては、一定面積が確保でき、訓練に必要な指導者の確保、東京からの距離、交通の利便性があることなどが条件となり、政府に青少年の満州開拓の必要性を進言した中に加藤完治(のちの訓練所長)がおり、加藤が経営していた私学農業学校がこれらの諸条件を満たしていたためと言われている。
義勇軍に応募した者は農家の次男、三男が多く、当時は家督は長男が継ぐとなっており、次男、三男は耕す土地もなく満州では大農経営に夢を馳せた。
内原での訓練は基礎訓練を3か月行い渡満する。渡満してから満州各地に点在する訓練所でさらに3年間の農業実習を終了すると国から10町歩の土地が与えられ、大農経営が許可された。
しかし、戦争が拡大するにつれ、徴兵される年齢も下がり、訓練生達も17歳、18歳になると現地召集され、多くの犠牲者が出たり、戦後のシベリア抑留されるなど過酷な状況におかれ、郷里に帰れなかった訓練生だけで2,4万人いると言われている。
義勇軍資料館の解説員の方から水戸で戦争展が開催されていると聞いたので、水戸へ向かいました。内原から10分ほどで水戸に到着。

おびただしい数の戦争犠牲者数に改めて驚かされる。

帰還証明書に函館上陸地支局長の文字が。終戦後、函館には引揚援護局が設置され北緯50度以南の南樺太から千島からの日本人引揚者30万人を受け入れたようです。最終的に引揚者のうち2万人が函館に居を求めたようです。

舞鶴を経て函館に帰還した陸軍兵の方の調査票を見つける。堀川町の文字に目を奪われた。

水戸出身で二次大戦中ペリリュー島で戦死した旧日本兵、白石さんが戦場で持っていた日章旗が展示されていた。永らく米国にあったという驚いたことに日本に戻ってきたのが3年ほど前だと言う、実に70年も米国にあったことになる。
日章旗には署名が埋め尽くされ、祝入営と大きく書かれている。ここに署名した人たちは入営を祝っていたのではなく、ただただ白石さんの無事を祈っていたのではないだろうか。