小幡城址

 茨城町にある古城跡を尋ねるべく、朝9時にスクーターで取手を出立しました。前日の陽気が嘘のような肌寒い休日でしたが、天候が良く青い空がとても気持ちが良い。走ること2時間くらいで目的地に到着しました。主要道路を使ったせいか、道程のほぼ全てで渋滞に見舞われました。

 畑の中に多数点在している小山と竹林を望めるが、城跡らしい区画を見つけることが出来ません。ひとまず駐車場にバイクを止めて辺りを見回してみる。初めに目に留まったのは香取神社、もしやと思い、神社方面に向かってみると右手の竹林前にちょっとした広場がありました。奥左手に説明板のようなもの、そして広場の右奥を見てみると小幡城址と書かれた木柱があるではないか。外観からはここが古城とはまったく気が付きませんでした。巧みな縄張りですね。

こちらの説明板に描かれた縄張りからはごく普通の城跡に思えましたが、中に入ってその感想はことごとく打ち砕かれました。

 小幡城は室町時代または鎌倉時代に築かれたという2つの説があるとのこと。また、戦国時代には江戸氏の影響下にあったようです。確かに水戸に向かう街道沿いに位置し、水戸まで10km程度なので拠点の城の1つだったのでしょう。なるほど、ちょうど水戸と府中の中間に位置するこの城は府中城を攻める拠点だったというのも納得出来ます。その後、豊臣期には常陸制覇を目指す佐竹の直轄地だったんですね。この城が活躍していた頃を想像するだけでわくわくしてきます。

 城への入り口は見通しを悪くした食い違い虎口のような構造をしています。土塁は結構高く、10mほどでしょうか。

 中に進むにしたがって土塁が高くなり、15m以上の高さがありそうです。しかも堀底道と呼ばれる空堀が曲線状に張り巡らされているため、どの方角に進んでいるのか分からなくなります。攻め手にとっては厄介この上なかったでしょう。土塁の傾斜がきつくて高いため、攻め手はどこから狙われているのか把握できなかったでしょう。今は綺麗に下草が駆られているので土塁の上にいる人影を比較的見つけやすい状況ですが、手入れされていない薄暗い樹林であれば、土塁上の人影を見つけることは決して容易ではなかったでしょう。

 どんどん土塁の高さがまし、傾斜もきつくなり、それが両側にそそり立っているため威圧感が尋常ではありません。逃げ出したくてもどちらに向かえば良いのか判断に困ります。

 完全に方向感覚を失いました。空堀からは土塁の向こうがどうなっているのかまったく想像できません。

 写真では土塁の高さが伝わりずらいですね。このあたりの土塁を登ることはちょっと難しですね。絶望的に高いです💦

 このあたりが縄張りの中心地にあたります。どちらを見回しても高い土塁が視野を遮ります。

 土塁を登り、櫓跡に向かいます。

 ここは武者走りです。土塁の上から空堀を眺めると予想以上に高いことがわかりました。

 こちらが櫓跡となります、土塁の上に平坦な少し開けた場所がありました。

 説明板に書かれている通り、少ない城兵で効率よく敵を撃退するための縄張りがなされた、実に巧妙な城であったことがうかがえます。東に本丸を置いていることからも、西からの敵に備えていたことが想像できます。

 ↑ここから見ると右側にある武者走りが確認しやすい。この場所を多くの城兵たちが駆け抜けていったのでしょうか。

 本丸方面を眺めるとうねうねと曲線をえがく空堀の様子がよくわかります。完全に敵兵の視野をそぐような作りになっていますね。

 それにしても土塁が高い。

 土塁を下り、先ほど土塁上から見下ろした空堀を振り返ってみました。

 土塁から降り、空堀内に戻りました。正面に土橋を見つけました。この土塁を越えると住民などが籠城した7の郭に出られます。今は畑になっています。

 土橋を正面にして左方向へ進みます。いよいよ本丸です。

 今はこの場所が本丸への入り口となっていますが、本来はもう少し東側が曲輪への入り口だったようです。

 本丸内は意外と広いことがわかります、狭い空堀の中を歩いていたせいか、なんとなく開放された気分になりました。本丸の北側には井戸の跡がありました。なんでも悲しい悲話の残る井戸跡のようです。

 いったん城跡を出てみました。やはり城の外からは、あのような空間が広がっていることを想像できないですね。

 しかしまあ、よくもこんなに複雑で大掛かりな郭を作ったもんだと妙に感心。

 このような縄張りをもつ城跡を尋ねたことが無かったので、改めて城跡巡りの良さを再認識されられました。

 小幡城址の見学を終えお昼ご飯を食べようかと彷徨っていたら、偶然にも小幡北山埴輪製作 遺跡(国指定史跡)にたどり着きました。これまでに59の窯跡が見つかているとのこと。常陸国は人口が多かったということですから、豪族の古墳も沢山あったんではないかと思います。

 こんな感じで前方後円墳上に埴輪が並んでいたことを再現したミニ古墳がありました。なぜかミニ古墳の隣でおじいさんがいきものがかりの曲を聴いておりました。

 お昼はなぜか山田うどんで生姜焼き定食をチョイス。美味しい。

  今日の予定は小幡城址の見学だけでしたので、昼食を食べて帰路につきました。また道が渋滞していそうなので国道6号線をさけた道を利用しました。全然空いてました。が、石岡あたりで6号線に合流し、渋滞につかまりました。

 一休みしようと思っていたら、本陣跡の看板を発見。休憩ついでに見学してみると、これがなかなかのもの。当時の旅籠も残っており、江戸時代を少しだけ体験。この旅籠の前をとおる道が旧水戸街道のようです。思わぬ発見に感謝です。

 旅籠の隣が本陣跡となりますが、今でのお住まいとして使用しているようで外観だけの見学となりました。

 本陣跡らしい門構えですね。武士がこの門から出てきそうです。

 本陣の正面には大きめの式台が用意されており、ここを水戸藩主が歩いたことがあったのでしょうか?妄想が膨らみます。

 一通り見学を終え、帰路につきました。しかし旅籠の外観は立派ですね。中も見てみたいところです

 一通り見学を終え、再び帰路。いや~しかしこちらの旅籠の外観は立派ですね。中も見てみたいところですが、こちらも住居として使用されている雰囲気がありました。

 渋滞を抜け、なんとか取手に到着、旅の疲れをとるために湯楽の里に向かいました。

 本日はなんと100度サウナの日だったようで、いい汗かきました。

 晩御飯はドトールさんに。

 今日も充実した土曜日となりました。

将門神社

 1年ぶりの将門神社訪問となりました。今回はたまたま近くを通ったので寄ってみました。将門神社は千葉県柏市岩井にあるのですが、実は茨城県旧岩井市にも多数の将門ゆかりの場所が存在しています。将門の営所が岩井にあったとの記述から同名の地にゆかりの場所が存在することとなったのでしょうかね。

 将門神社は龍光院というお寺の左脇に鎮座しており、お寺の門脇にはりっぱな鳥居がたっています。こちらのお寺の境内には古そうな庚申塔が並んでいます。江戸から明治にかけてつくられた石塔のようです。

 こちらが将門神社となります。やはり古そうな石塔や石灯篭が並んでいます。

寛永12年の文字を読み取れます。

 将門大明神の扁額が目を引きますね。本殿は小ぶりですが、かなりこった彫刻が全体に施されていて見ごたえがあります。

 彫刻の題材の多くは将門に関連するもののようで、特に多数の馬の彫刻が刻まれていました。なお、このあたりは相馬郡、将門の母親は相馬家出身と言われており、つながりが深い地域と言えます。伝説が残るには十分な土地柄でしょう。案内板の説明によれば、この社殿は江戸時代末期、安政年間に作られたもののようです。

利根川ラン

だいぶ気温が下がってジョギングには良い季節になりました。ひさびさの利根川ランに行って来ました。

芝生の上で多くの人が凧揚げを楽しんでいるようでした。だいぶ前にテレビで見た凧あげ同好会の方々でしょうか??

今日は久々の長距離ランだったのでゆっくりと風景を楽しみながらのジョギングとなりました。いつもとほぼ同じコースですが、今日は川沿いの砂利道を走ってきました。災害時に使用する道のようで途中誰も通り過ぎる人はいませんでした。釣りをしている人も少なく、川の流れも穏やかで静かな時が流れていました。

今日は筑波山の山並みをはっきりと見ることができます、まさに茨城県に居ることを実感します。

さらに牛久大仏を見ることもできました。

今回も水神様のところで一休みさせていただきました。来年こそはといつも思っていますが、水神祭りは今年も見ることが出来ませんでした。いまだに小貝川の氾濫による水害を押さえることができないほどこの川は治水が難しいのでしょう。水神様に願いを込めた当時の村人の気持ちが伝わってきます。境内には数多くの石仏と石塔が残されています。

現代でも十五夜には月を眺める風習がありますが、元々は月待という行事で、複数の人が集まって月を眺めながら食事をしたり、念仏を唱えたりしていたようです。神社や古い街道脇で見られる月待の石塔は当時の人が集まった記念として設置していたようです。こちらの水神様の脇にも幾つか月待講の石塔が置かれています。写真の石塔は二十三夜塔で月齢は左側半分が輝いて見える下弦の月である「23夜」を記念したもののようです。

雨がぱらついてきたのでジョギングを早めに切り上げてきました。

往路でもほとんど人とすれ違うことはありませんでした。

帰り道、雲の晴れ間を眺めていたら富士山を見つけました。

今まで気が付きませんでしたが、よく見るとスカイツリーが見えていました。さすがに高さ634もあるとここからでも見つけることができるのですね。

今日は走行距離は10kmほどとなりました。本当に走って気持ち良い季節になりました。

須磨寺~一の谷

次に向かったのは源平合戦で有名な一の谷。治承・寿永の乱で最も有名な戦いの1つなのではないでしょうか?義経による鵯越はあったのか無かったのか??

まずは悲運な最期を遂げた平敦盛ゆかりの地となる須磨寺へ。境内には敦盛の首塚、義経が敦盛の首実検の際に腰かけていたという松の老木、その際、首を洗ったと言われている池などがある。中でも今でも多くの人を引き付けているという敦盛愛用の青葉の笛はぜひとも見たいと思っていた。

山陽電鉄の須磨寺駅から商店街を抜け須磨寺に到着。いきなり平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を再現した源平の庭が目に入ってきました。なんとももの悲しい気分になりました、敦盛はわずか16歳で首を取られ、首を取った熊谷直実は後に出家することに、一度聞いたら一生忘れられない悲話ですね。

本堂は豊臣秀頼が再建したとの説明書きがありました。建築奉行はあの片桐且元。どうする家康に出演している俳優さんを思い出しました。

ひときわ目を引く朱色が眩しい三重塔がそびえ立っていましたが、こちらは新しそう、境内は観光客で賑わっていました。

敦盛の首塚の前で手を合わせました。いつの世でも戦は悲しみと憎しみを生み、その悲しみは長く消えないと思います。

この池で敦盛の首が洗われ、その首を義経がこの松の老木に座って見分したと思うと悍ましい気分に。義経が自ら首実検し敦盛の首だと判断したとのこと。このころが義経の人生の上り坂で、何をやっても全て自分の思うようにいった時期だったのでは。

ふと大河ドラマ鎌倉殿の13人を思い出しました。大泉洋がいい味出してましたね(笑)

最後に須磨寺の宝物庫で敦盛愛用の青葉の笛を拝見させていただきました。これを演奏していた敦盛はどんな人だったのか。

須磨寺を後にして、徒歩で一の谷に向かいました。ほんと11月というのに暑い。一の谷まで結構歩きました。

今は公園になっているこの地で合戦が行われたかと思うと、少し特別な場所に感じられる。この狭い場所に密集していた平家の武士たちに目の前に突如義経が現れたとなると皆驚いたに違いないと思います。山側は急峻な崖、目の前の浜もかなり狭いため、平家側の武士たちに逃げ場はなかったのではないかと。

公園内には1995年に発生した兵庫県南部地震によって落下した重さ2.4トンの石でできた地球儀がそのままの形で展示?されていた。

公園の裏に安徳天皇が一時滞在したと言われている場所があるというので行ってみることに。しかしいきなり急な坂と崖のような山が視界に入る。いい眺めではありますが、登るのは一苦労、まるで登山です。

なんとか坂を上り切り、安徳帝内裏跡伝説地の石碑を見つけることが出来ました。なぜか和宮?の銅像が設置されていました。

この場所に滞在していた安徳天皇はその後、わずか8才で壇ノ浦の海中に没したという話も涙を誘います。ほんと戦争は嫌ですね。

下山?する際はせっかくなので違う道を歩くことにしました。地名を見ると二ノ谷とあります。瀬戸内海を見下ろせる住宅街には強大な邸宅もいくつかあり、富裕層が好む地域なのかもしれません。

公園のはずれにも敦盛を供養した五輪の塔があります。説明板には室町後期から桃山時代時かけての制作とありました。ながく敦盛を弔ってきたのですね。

中世の五輪の塔としては2番目の大きさとのこと。

丁度お昼時だったので敦盛そば屋さんでお蕎麦を頂きつつ休憩させていただきました。

湊川公園から会下山公園へ

折角なので楠木正成所縁の地を巡ってみました。湊川の合戦というからには川が流れているのではと思い、湊川公園へと歩いてみました。

どうやら暗渠になっているようで川を見ることは出来ませんでした。

公園の一角に楠木正成の銅像が設定されており、勇ましい姿が表現されている。動き出しそうです。

次は湊川の合戦で楠木正成が陣を張ったという会下山へ。眺望が素晴らしいとのことで期待が高まります。途中、今ではなかなかお目にかかれない昭和な商店街を発見、活気に満ちています。

ここからは少し傾斜を上る感じで、山に向かっている感じがします。

電車の線路の下を通るトンネルを抜けるとかなり急な上り坂となり、汗が噴き出てきました。この日は11月とうのに夏日、日中は25度以上の予報が出ていました。

なんとか会下山公園に到着。確かに良い眺めです。遠くに神戸メリケンパークに立つポートタワー?が見えます。

確かにこの見晴らしなら陣を張るには良さそうな場所ですね。

今は楠木正成が陣を張ったと場所には石碑が建てられているのみです。

新神戸駅から湊川神社へ

久々の神戸訪問となりました。今回も東京駅から新幹線に乗り新神戸駅で下車します。約二時間半の乗車となりました。

新神戸駅は山側にあり、有名な布引の滝の近くにあります。ここから海を見ることは出来ませんでした。

 まずは駅から徒歩で湊川神社に向かいました。こちらの神社は南北朝時代の名将と呼ばれている楠木正成最後の地であり、湊川の合戦で敗れた正成がこの場所で自害したと言われています。

南北朝時代以前からの神社なのかと思いきや、もとは秀吉の太閤検地によって楠木正成のお墓が発見され、明治維新後、伊藤博文らの有志が朝廷に請願して建てられたとのこと。

本殿裏には楠一族戦没地が国指定文化財史跡として残されています。

また水戸光圀公が建立された楠木正成墓碑もあり、ちょこちょこ見物客が訪れる観光名所になっています。

墓碑前には元治元年に奉納された石灯篭がありました。